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世界平和なう:シャンティ&シャッセェー

2018/03/03(土)
月に一、二度上京した時にだけ行くコンビニでネパール人の青年が働いている。流暢な日本語で物腰穏やかで仕事も日本人に劣らずこなしているようにぼくには見える。蛍光灯ビカビカで騒々しいコンビニ店内にあって、彼の周りだけシャンティな空気が漂っているから勝手に彼のことを心の中でシャンティと呼んでいる。インドやネパールの人によく感じるこの静謐さはなんなのだろうかといつも思う。接客の時もちゃんと目と目を合わせるので、ちょっとドキっとしてしまう。目が澄んでキラキラしているのだ。
 
こないだそのコンビニに行った時、もう一人見慣れない店員さんがいた。彼は店内に客が入って来た印のアラームが鳴るたびに甲高い声で「しゃっせぇー!」と声を張り上げる。もちろん、「いらっしゃいませー」と言ってるはずなのだが、そういう風に聴こえる。一旦そう思ってからはそうとしか聴こえなくなっている。動きがキビキビしていて緊張感が漂っているのがシャンティとは対照的だ。120%の力で接客している感じで特に混んでいなくてもMAXスピードでレジを打つ。忙しく働くのが身に染み付いてしまっているように見える。
 
店から出ようとした時、怒鳴り声に驚いて振り返ると、シャンティがそのシャッセェーに怒られていた。
「◎◎くん、さっき唐揚げ作っといてって言ったよね!なんでまだできてないの?」
客に聴こえる大声でヒステリックに怒鳴り散らしている。ちょっとその語気の荒さはあんまり耳にしないほど激しいものだった。
次の日、またそのコンビニのレジで会ったシャンティに訊いてみた。
「昨日さ、“シャッセェー”っていう人に怒鳴られてたよね?」
「そうなんですよ。」
「あの人、みんなにああなの?」
「いえ、ぼくにだけです」
「ターゲットになってるんだ。いるよね、ああいう人って。きみが怠けてるように見えるのかな。ほら、シャッセェーは無駄に早いからさ。落ち着いてる人を見ると嫉妬しちゃうのかね」
「ええ、いつもあんな感じなんですよ。ぼくは仲良くしたいんですけど…」
「大変だね」
ふと胸元のカタカナで書かれた名札が目に入った。シャンティの本名は日本語で「ごめん」の意味を持っている。これは面白いと思った。
シャッセェーが、「◎◎くん、これできてないよ!」などとシャンティの名を呼んで怒るたびにシャッセェーはシャンティに謝ることになるのだ。
シャッセェーはこの店でシャンティと同僚として働くという縁によって、怒るたびに謝らされている。それを日に何度も繰り返すことになっている。シャンティはただの災難だと思っているかもしれないけど、自覚することなくシャッセェーの心の成長に関わる役割を担っているような気がする。
 
とこんなふうにうまくまとめたと思ってから気がつくのは、ぼくが「しょうがない人だな」と思っているシャッセェーは実はぼく自身の中にしょっちゅういる、ということだ。張り切り過ぎて空回りし、ちょっとのんびりしている人や自分から見て「努力が足りない」ように見える人を責めたり、煽ったりする心。
一方でシャンティもまた自分の中にいる。
控えめで落ち着いていて、強気の人の主張をただ受け止めるだけで、後から「あの時ああ言えばよかったのに」などと悶々とするような心。ぼくが実際に見たり聞いたりしていると思っている“現実”という名の物語は、実はぼくがふだんの自分の心象風景の通りに現実を型抜きして“そういうことが起きている”ことにしているだけで、実際にぼくが感じたような出来事が誰の目にも明らかな現象として起こったわけではないのかもしれない。
また、そうしたあらゆる心を俯瞰しつつ内省し、たとえわずかずつでも自らの不足を補っていこうとする心もまた内在しているように感じる。
    
マザーテレサはこんなことを言っている。
“最後に振り返ると、あなたにもわかるはず。
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。”

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