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世界平和なう:決して滅びないもの

2018/08/03(金)
最近、戦争の映画やドキュメンタリー、本をよく見る。そういう作品には人がどこまで残酷になれるのか、戦場で何が起こるのかが克明に描かれている。だからといって、ため息をついて暗澹たる気分になるだけでもない。
人の成し得るもっとも愚かで残虐な行為、それが戦争だろう。そこに異論はないけれど、泥の中に咲く蓮のように、人の魔性が全解放される戦場で不意に人の善性に出逢うこともある。
ガリポリの戦い〜兵士たちの人生〜」というドキュメンタリーが素晴らしかった。第一次世界大戦の激戦地となったガリポリの戦いについて、識者へのインタビューや従軍した兵士、指揮官たちの手紙や日記、生々しい戦場の記録映像などから成る作品だ。
 
※ガリポリの戦い…第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡西側のガリポリ半島(現・トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦。
この戦場の最前線では最も近いところで塹壕間の距離が5mだった。塹壕から頭を出すことは即死を意味した。その距離で互いの塹壕の中へ手榴弾を投げ合う。塹壕の壁の一部になる死体、土嚢の間から突き出る手足。塹壕から敵の砦までを全く地面に触れることなく歩くこともできた。死体が一帯を埋め尽くしていたからだ。死体の山が塹壕の中に2、3メートル積もることもあった。おびただしい死体が放つ悪臭によって常に吐き気に襲われ、食欲は失せた。
  
ある時、その死体を片付けるために8時間の停戦があった。
敵同士で互いに握手する者もいた。
ある兵士は故郷にこう書き送った。
「きみたちはどう思うか知らないが、彼らは紳士だ。」
やがてまた殺し合った。
  
死体や傷口からハエが大量に沸き、糞便や死体と食べ物をつないだ結果、チフスと赤痢が蔓延した。7月になると数百人の兵士が病で避難した。ほとんどの兵士が赤痢に感染した。赤痢になると猛烈な吐き気と一日数十回にも及ぶ下痢で衰弱し、立っていることさえ難しい。その状態で戦場にいるなんてまさに地獄だ。トータル2万人のトルコ兵が病死した。粗末な食事が病を悪化させた。雨が降れば、丘から塹壕の中に流れ込んだ雨水の中で溺れる者もいた。
連合軍の上陸間もない頃、最前線の兵士たちは何日も不眠不休で殺し合い、夜は塹壕を掘ったが、戦局によって緩急が生まれるのだろう。兵士たちは少しの空いた時間に敵に嫌がらせしたり、手紙を書いたり、本を読んだり、海で泳いだりした。敵の砲弾が降り注いだとき、数千人の兵士が海岸にいて群衆の中に落ちた砲弾によって兵士が死んだこともある。
大砲撃によって偶然古代の彫像が発掘された時、仏軍には考古学的発掘の時間さえあった。爆撃の後、連合軍にはサッカーの試合の時間があった。トルコ軍は砲撃せずに試合を見て賭けをした。
  
塹壕から出て出撃する兵士がことごとく射殺されているにも関わらず、続けて出撃させる豪州軍の塹壕の端で、殺している側のトルコの指揮官が叫んだ。
「ストップ!ストップ!」
自分たちが無意味な虐殺を続けるのが恐ろしかったのか。テニスコートぐらいの場所で30分以内に600人の部隊中234人が死に、138人が負傷した。
毎日、昼食後の正午、前線は静寂に包まれた。まるで示し合わせたように自然と休戦の時間になった。その間イギリス軍兵士は紙や布でできた人形を塹壕の上に出して右に左に踊らせた。
塹壕が近いところでは殺し合っているお互いを見る事が出来、分かり合えた。何しろこの上なく過酷な状況の中で双方が同じ痛み、苦しみを共有し続けているのだ。理不尽な命令、使い捨てにされていく仲間たちの命、疫病の蔓延、粗末な食事、絶え間ない悪臭、辺りに散らばる死体、止まない砲撃…。
 
メッセージやプレゼント交換すら行なわれた。トルコ兵が豪州兵にタバコを投げれば、豪州兵がお返しにコンビーフ缶を投げた。敵へのプレゼントを探しに無人地帯(前線の間のどちらの占領地でもない領域)に出る兵もいた。
やつれたトルコの老兵アーネストは毎朝薪を集めるために塹壕の外に出て来た。長い間、誰も彼を撃たなかった。連合軍兵士がビーフ缶を投げると挨拶して礼を言った。暗黙の了解を知らない新人が見張りについた朝、突然撃たれて死んだ。
 
ユーモア、慈悲、友情、共感なんていうものほど戦場と場違いなものも一見なさそうだ。一年に満たない間に12万人が死んだ戦場でさえそんなことがあったということに驚いた。人の悪性が不滅なのと同じように善性もまた不滅なのだろう。

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