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中東へ向けて「パレスチナの人々が幸福に暮らせるように」 長谷川友信さん

2017/07/29(土)
2015年、この地球から戦争を無くし、馬鹿だと思われるかもしれないが、“戦争なんて遠い昔のおとぎ話”にしてしまいたい、そんなことを本気で思った人等がつながって、アースキャラバンが生まれた。
 
そして、その年、アースキャラバン中東の開催地である、イスラエルとパレスチナの地を初めて踏んだ。
 
初日、聖地・エルサレムを訪問した。強い陽射しの中、ガイド氏が一生懸命に説明をしてくれるのだが、イマイチ面白くない。多分、その地がイスラエルの支配下だったから、早く抜け出したかったから、かもしれない。
 
エルサレムをあとにし、バスはパレスチナ自治区に入った。ほっとした。
 
ある難民キャンプ。半世紀もの間イスラエルに占領され続け、分離壁を張り巡され続け、検問所にある高い監視塔から、いつも双眼鏡で監視され、自由を奪われ、イスラエルに税金を払っているのに、ゴミ集積場のゴミは外に運搬してもらえず、置き去り。狭い街中に、そのゴミを燃やし続けているためだろう、煙の匂いが漂っていた。路地にはゴミが散乱し、汚水が流れていた。おそらく、きれいな飲み水など飲めないだろう。
 
そんな難民キャンプで生まれて、生き続けて来たパレスチナの人々の中には、分離壁の外の世界を一切、知らない人も居る。
 
紛れもなく、そこは収容所だ。

収容所の中に、子供達が学び、遊ぶ、施設があった。
 
中庭で子供たちが、鬼ごっこのような遊びをしていた。少しだけ、仲間に入れてもらい遊んだ。キャア、キャア、逃げてながら笑顔を見せる。こんな収容所の中でも底抜けの笑顔がそこにあった。泣けてきそうだ。「おじさん、そんなこと気にしないよ。だってみんなと遊んでいると楽しいもん。」と言われてる気がした。
 
しかし、こんな環境に住み続けていたら、この笑顔の子供達は、遅かれ早かれ身体を壊すに決まっている。すでに、肺に病を抱えている子供がいてもおかしくない。寿命も短いに決まっている。この子供たちも、一生この難民キャンプで過ごし、死んで行くのか?
 
やりきれない怒りがつのってくるが、ゴミ掃除をすることもできず、子供達に別れ、帰りのバスに乗り込み、難民キャンプをあとにした。何だか、胸のおくが痛み、罪悪感がわき上がってきた。
 
パレスチナに「行ってみたい!」と思った、きっかけがある。
 
下記の手記は、2015年の第一回目のアースキャラバンが開催される数年前に、和田寺住職であり、アースキャラバン発起人+タオ指圧創始者+ミュージシャン等々、様々な顔を持つ遠藤喨及さんが書かれたものである。
 
僕は、これを読ませて頂きパレスチナを訪れることになった。
 
「催涙弾を受けて知る パレスチナの涙」 遠藤喨及
 
気がついたら、イスラエル兵の撃つ催涙弾の下を逃げ回っている僕がいた。

気がついたら、路上でボランティア指圧をしている僕がいた。

彼らは、イスラエル警察に自宅を追い出されたパレスチナ人家族だった。
 
どちらの時にも涙が流れていた。 それは、パレスチナ人たちが流している涙だった。
 
悲しみ、悔しさ、怒り・・・。 “どうして、人が人に、そんな非道なことができるのか?
 
まさか、こんな理不尽なことが、行なわれていたなんて・・・。

これらは、僕が、パレスチナにいる間、何度もつぶやいた言葉だ。
 
パレスチナで僕は、やり場のない怒りをもてあまし、いくども空を見上げていた。
   
中東の実体 
 
これまでイスラエルには、湾岸戦争の年から数えて、9回ほど行っていた。しかし、パレスチナに足を踏み入れたことはなかった。行こうとしても、イスラエル人に止められていたからだ。
 
そして、恐ろしい話ばかり聞かされていた。 “パレスチナ人たちは、皆んなテロリストだ。

奴らは気の狂った恐ろしい連中だ。
エルサレムに行くと、外国人は殺される。
 
なるほど、それは、一般のメディアが流しているパレスチナ人のイメージと、さしてかけ離れたものではなかった。
 
だから、それがプロパガンダ(宣伝)によって作り上げられたイメージだったとは、その時の僕には知るよしもなかった。
 
「事実は小説よりも奇なり」である。僕はパレスチナに実際に行って、この目で見て、そしてはっきりと知った。
 
世界で流れている中東ニュースが与えるイメージの多くが、でっちあげだったということを・・・。
 
加害者とされた人々は、実は被害者だったのだ。
 
本で読んだだけでは、中東の実態はわからなかった。やはり何ごとも、自分で体験してみなければわからないものだ。
 
それにしても、僕が見た範囲ですら、実際に起こっていることは、想像をはるかに超えていた。
 
報道のウソ
 
例えばあなたの家にヤクザが押しかけて来て、あなたたち家族を銃で脅し、追い出したとしよう。
 
追い出されるにあたって、娘さんは殴られて前歯を折られ、奥さんも肩をねじ上げられた。(この部分は、僕自身が行った聞き取り調査によって知った)
 
武器を持っていないあなたたち家族は、こうして、やむなく家を出た。

畑もヤクザに奪われた。 しかし、お父さんとしては、このまま泣き寝入りするわけにはいかない。と言っても、せいぜいできるのは、石を投げつけることぐらいだ。
 
石を投げた結果が、どうなるか?。催涙弾を撃たれる。小銃で撃たれることもある。

戦車が来ることすらある。妻は負傷。幼い方の娘は死んだ。血気盛んな息子は、“明日も皆んなで怒りの抗議に行く”という。
 
しかし、石を投げた罪であなたは逮捕され、刑務所に拘留されるかも知れない。
 
あなたは、なすすべもない。“一体、俺たちが何をしたって言うんだ!?”と地面をかきむしる。
 
僕は不思議である。どうしてこんな状況を、イスラエルとパレスチナの「紛争」とか「衝突」という言葉で報道するのだろう? 一方的に奪う者と、奪われる者という関係があるだけなのに。
 
入植者と分離壁、そして検問所
 
ある日、あなたの家の近くに高さ8メートルもの壁が建築されたとしよう。その壁は、延々と続いている。それは、単に見通しが悪くなっただけではない。あなたは、もう自分の畑に自由に農作業に行くことができなくなったのだ。
 
もはや生活の手段はない。畑は奪われたのだ。 一体誰が何のために、こんな壁を建てたのか?イスラエル人の入植地ができたためである。イスラエル政府は、入植者の治安のためという名目で分離壁を建設し、そこには兵隊が銃を持って構えている。
 
土地を奪われ、生活の手段を失ったパレスチナ人たちが抗議のデモに行く。すると、イスラエル兵は催涙弾をぶっ放す。
 
またイスラエル兵は、深夜に村を襲撃し、デモに参加した若者を逮捕しに来る。
 
一方の、イスラエル人入植者たち。ユダヤ教原理主義者が多い。彼らの行為は異常である。信じられない話の数々である。
 
牛の世話をしているパレスチナ人の家族の所に、突然、車でやってきて、おばさんを棒でめった打ちにする。
 
通学中のパレスチナ人たちの子供たちを殴る。(このため、キリスト教の団体が、子供たちの集団登下校を引率している)
 
家を売ってくれとやって来て、断ると家に火をつけ給水塔を壊し、抵抗した家族を殺す。(僕は、家族を殺された子供に、実際、家を見せてもらった。)
 
ひそかに夜中に侵入し、オリーブの木を切り倒し、家畜を殺す。
 
しかも殺人を犯しても農場を荒らしても、イスラエル人は逮捕されない。
 
たとえ被害にあっても、パレスチナ人は泣き寝入りするしかない。
  
また、場所によっては、学校に行くのにも通勤するのにも、毎日、検問所を通過しなければならない。しかも、通過はイスラエル兵の気分次第だ。時には、何時間も平気で待たされ、食事もできず、家に帰れない。救急車ですら止められ、助かるはずの人が死ぬことだってある。
  
人間の尊厳など、当たり前のように踏みにじられている毎日だ。占領され、支配され、自由を奪われるとは、そういうことだ。
 
GUC(NPOユニ)※としての活動 ※NPOアースキャラバンの前身
 
ここでざっと、8月6日―17日間の活動等について述べておきたい。
 
まず、2日間の「イスラエル・パレスチナ平和会議」に参加し、“気と心のワークショップ・仏教カウンセリング”の講習を行なった。
 
その後、ナブルス難民キャンプに行き、日本アラブ未来協会の田中氏のお手伝い。
 
かつて虐殺があったとされるジェニン村にも行く。
 
へブロンに移動し、理学療法協会で、「タオ指圧講習」を行なう。 さらに、ビリン村に行き、分離壁の抗議デモに参加。イスラエル兵の撃つ催涙弾の下を逃げ回り、涙の中でパレスチナ人のくやしさを想う。
 
東エルサレムに滞在。不当に自宅を追い出され、路上生活をしている家族を訪ねる。
 
聞き取り調査と、路上でボランティア指圧する。 西エルサレムでは、イスラエルの人権団体を訪問。
 
彼らは、パレスチナ人の家の破壊に反対している。この団体が主催する、イスラエル政府に破壊された家を回るツアーは、満席で断念。
 
最終日。家の破壊を宣告されている80家族の住む地区を、他の支援者と共にパトロール。
 
その後、飛行場に向かう。
 
パレスチナの非暴力抵抗運動
 
帰国後は、Tシャツ製作のプロジェクトを準備し始めた。
 
パレスチナ人=テロリストというイメージを払拭するためだ。
 
デザインは、ガンジーの肖像画と「パレスチナ非暴力の抵抗運動」という英文字。
 
また、これを現地で製作し、彼らの仕事にもなればと思う。
 
Tシャツは、海外からのデモ参加者に配ったり、支援者に買ってもらったりする。
 
世界の人々に見てもらいたい。また、これの販売による収益は、パレスチナの村の活動資金になる。
 
パレスチナ人活動家たちともコンタクトを取って進めているが、彼らもこのプロジェクトを喜んでいる。
 
余談だが、このプロジェクトを始めることができたのは、“坊ちゃん”というあだ名の友人より、Tシャツ制作のためと、寄付の申し出があったお陰である。
 
“坊ちゃん”とは、ずっと、はるか以前、インドを貧乏旅行している時に知り合った。ガンジス河沿いにある、一泊500円もしない同じ安宿で、お互い何週間もウロウロしていた仲である。
 
縁とは不思議なものだ。今回、パレスチナのTシャツ・プロジェクトのために、彼と20年振りで会った。
 
すると坊ちゃんは、いつの間にか“社長”に変身していた。でも、気持ちは相変わらず“熱い”ようだ。
 
各自ができる何かを
 
パレスチナでは、信じられないような非道なことが行なわれていた。
 
しかし同時に、信じられないような、人間の優しさにも数多く出会った。
 
“いい匂いだね”と誉めただけで、売り物のパンをくれるパン屋の少年。
 
お茶をごちそうしてくれる、屋台のお茶屋の兄ちゃん。
 
田舎道を歩いていると、“どこまで行くんだい、送って行こうか?”と声をかけてくれる仕事帰りの家族。
 
僕はパレスチナほど、安心して旅したところはなかった。
 
そして、優しかったのは、パレスチナ人たちばかりではなかった。
 
海外から、多くのパレスチナ支援者がやって来ていた。
 
彼らは優しく、気負いもなかった。
 
そして、危険を伴うデモに参加し、路上でパレスチナ人家族たちと共に寝起きしていた。
 
村で深夜のパトロールをし、逮捕されることも恐れず、イスラエル兵からパレスチナ人たちを守ろうとしていた。
 
虐げられた人々の役に立ちたいという、共通の想いを持っているためだろうか、パレスチナでは、海外から来た支援者と、すぐに友だちになることができる。
 
僕は日本の皆さんに、こんな世界もあるのだということを知ってもらいたいと思った。
 
そして、できれば、現地に足を運んでもらいたい。
 
また、多少の危険は伴うが、デモにだって参加してもらいたい。
 
人々の苦しみを肌で感じ、その現状を変えるために何かをして頂けたら・・・と切に想い、また願う。
 
その瞬間、“自分はたしかに生きている”と感じることができるから。

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