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世界平和なう:今は戦後ではない

2017/07/29(土)
打ちのめされている。
一冊の本を読んだだけで。
ほんの一センチぐらいの厚さの本で写真と少しだけ文章もある。フォトジャーナリスト・広河隆一さんの「パレスチナ~瓦礫の中のこどもたち~」(1991、徳間書店)という本だ。
全然新しい本ではないけど、今でも現地の状況はひどいという。
 
高い分離壁であちこちを仕切られ、銃を構えたイスラエル兵の監視下におかれた暮らし。石をつかんだ子どもが銃殺されることもある。イスラエル兵はパレスチナ人を殺しても罪に問われない。彼らは”いつ襲って来るかわからないゲリラ”ということになっているから。
 
デモに参加した咎で夜中に子どもが連れ去られ、少年院のような施設に入れられる。面会もさせずに何年も監禁し、「親たちは(子どもを)嫌っているから面会に来ない。」などとあえて家族、親族との不和をつくりだす。突然住んでいる家が破壊され追い出される。もともと彼らのものである水や電気といったライフラインが奪われていて、独占的に使われる。
 
世界でもこれほどの人権侵害が長年に渡って続いているところはないのではないか。
 
その本の中にパレスチナで彼がどれほど凄惨な現場を見てきたかが淡々と綴られている下りがある。写真にはその惨劇に出くわした時の、微塵の慈悲もかけられずに殺されていった遺体の数々も収められている。でもきっとそれらの写真は比較的無難なものとして選んで掲載されたのだと思う。
 
言葉で描写される殺戮の様子はここに抜き書きするのも憚られる。人がここまで残忍になれるのかという地獄絵がそこかしこにある。たぶんどこの戦場でも同じだったはずだ。こうしている今だって世界のあちこちで起こっている。
 
「戦後」という言葉をよく聞く。「もはや戦後ではない」と言った人さえいる。ほとんどの日本人にとって戦争といえば先の大戦を指し、それが終わった後、一応平和な世の中に生きてるものだから「今は戦後で平和」という認識が常識になっているのかも。でもこれはあくまでも自分たちの身の回りで戦争がないというだけの話なのだ。
 
平和な世の中と書いたけど、これは本当に平和なのか? と思う。
世界のあちこちで飢えていたり、圧政や理不尽な因習から人権を踏みにじられたり、殺されたり、差別されたりしている人がいる。
 
それがわかっていて、それでも自分たちの生活圏だけを世界と見なして「平和だな~」と”世界全体が平和”みたいなことにして生きていることが。自分の心は本当にその状況に満ち足りているだろうか。
 
世の中とか世界などといってもどこにも実体はない。実際にはその人が認識する範囲、というより、自分が責任を感じている範囲が自分の世界になるわけだから、人によってスケールが変わる。
 
「家族と友人と職場」だったり、
「日本の中だけ」だったり、
「自分だけ」だったり、
「地球全体」だったりマチマチだろう。
 
だから今の世の中が平和だと思うとすれば、それは世界中のひどい状況を全く知らないか、知っていながら他人事にしているということになる。
 
エジプトに暮らす友達がこないだ帰国していてこんな話をした。
 
自分の知り合いの男が妻を殺した。男は一旦逮捕されたが、妻の携帯電話に他の男とメールのやりとりがあったことを浮気の根拠として提出し、無罪放免となった。
 
エジプトの場合、男は4人まで妻を持てるが女は持てない。女の浮気は御法度で夫がそのような妻を殺しても合法!。確証がなくてもこのような裁きが下ることは珍しくないという。つまり超男性優位社会。
 
一夫多妻制ももともとは未亡人の生活保障的意味合いもあったが、イスラム教の教義が都合よく解釈されたり、利用されたりしてきた歴史もあると友達は言った。
 
そしてエジプトでは小学校入学から学業と併行した必修科目としてイスラム教の学びが始まるのだという。それなのに、人種差別も根深く、アジア人など対等につきあってもらえない。自分たちだって白人からしたら有色人種なのに。信仰は何の役に立っているのだろうか。
 
エジプト、パレスチナだけではない、世界中にとんでもないことになってる場所はたくさんある。福島の原発事故が収束していないのに原発の再稼働と新設すら進めて行くこの国の状況だってそうだ。日本も一見したところの表面だけが平和なんであって、その潜在的危険度は世界でも指折りのレベルかもしれない。
 
世界平和というと、なんだか自分とかけ離れたこととして国連本部をイメージしちゃったりしないだろうか。どこかで誰かが根本的なシステムを変えたり、巨大資本によって一気に改善されるべきことのようなイメージが。
 
「世界の平和はもちろん大事だけど、かといってすぐに自分でできるような直接的な対処の仕方が思いつかないし、なさそうだからそれならまずは自分の心から。そしてそれは世界平和につながることだから」
 
一理はある。そんなふうに隙あらば自分の日常に戻って行こうとする気持ちが自分の中にもある。
 
こうやって自分の生活が第一の人が増えると、パレスチナの人たちみたいに迫害されまくっていて、メディアが真実を報じなくて、政治的、経済的、軍事的に加害側が圧倒的優位に立っている場合、誰が被害者に手を差し伸べるのか。関心を持って寄り添いウォッチし続けるのはジャーナリストだけなのか、ということになる。
 
パレスチナの人々の目に世界の人々、特に人並みな生活を送れてる人たちはどう映っているのだろうか。
 
アースキャラバンでは、必ずパレスチナが毎年の開催地に入っている。
 
パレスチナ問題はよく人類全体の問題として象徴的に語られることが多い。主な宗教の聖地が隣り合って密集しているところ、古くから異文化が合流し、異民族、異教徒の争いと共存の歴史があったこと、ホロコーストほか歴史上ずっと迫害されてきたユダヤ人が迫害していること、など考え合わせると特別な場所なのだと思う。
   
もし、巡り巡った人類全体の膿が集中し、噴出しているような場所があるなら、まずはそれがあることを周知しなければいけないし、自分の問題として引き寄せて考え、アクションを起こす人が増えなければどうにもならない。
 
パレスチナ問題はパレスチナ人だけの問題ではない。人の痛みを引き受けるかそうしないか、広い世界で真の幸福を目指して生きるか、狭く限定した世界の擬似的幸福に生きるか、という風に生き方を問われるという点で全ての人にとって人生の課題なのだ。
  
冒頭の広河隆一さんが発行するフォトジャーナリズム誌「DAYS JAPAN」の表紙には毎号必ずこう書いてある。
 
「人々の意思が戦争を止める日が必ず来る」
  
見るたびにハッとさせられる。
この雑誌自体が人間社会の不条理と悲惨を嫌というほど見て来た人の、人生に対する答えになっていると思う。
 
そしてこの言葉には「人間がこの程度の存在であるはずがない。人はもっと助け合い、愛し合える。」という確信が込められていると感じる。
  
こっちも負けずに宣言しよう。
 
人々の意思がパレスチナを解放する日が必ず来る。

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